アルバイトから社長になれるべラジオの底力
大阪を中心にチェーン展開するべラジオが8月8日、東京1号店となる「べラジオ東十条店」をグランドオープンさせた。これでチェーン店は21店舗となった。2016年3月までに30店舗構想を持っている。
と書けば何の変哲もないホール企業の一つであるが、べラジオには他では真似ができない組織を作り上げている。
その中身とは…
べラジオが設立されたのは2000年のことだった。倒産寸前の実家の「弁天グループ」を立て直すために社長となる林田氏は戻ってきたが、長年、金融機関や外資系の保険会社に勤務していたのでホール経営のノウハウはなかった。
店名を「べラジオ」に変え、グランドオープンしたものの、改装資金も潤沢ではなかった。
クロスを張り替えただけの名ばかりのグランドオープンで、設備は20年選手のままだった。
店舗を再生するために林田社長が伝手を頼って集まった業界経験者メンバーは4人だった。しかし、ずば抜けて優秀な人材がいたわけではない。釘の技術も決して高くはなかった。
ヒト、モノ、カネもない中、あるのは夢だけだった。
グランドオープンを控え、立ち上げメンバーで飲みに行く機会が増えた。在籍していた保険会社では、未だに売り上げ記録が破られていないほどの優秀な営業マンだった林田社長も、初体験のパチンコは不安だらけだった。
「家族もあり、仕事もあったのに、ついてきてくれたが、その恩に報いることができんかもしれん。しかし、絶対、路頭に迷わすことだけはできん。すまん、すまん」と立ち上げメンバーを前に号泣した。
社長の姿を見て、4人はむしろ「やってやろう」と気持ちがどんどん高まっていった。現場に団結力が生まれると店が勝てる雰囲気に変わっていった。
中古の設備に、中古の機械。
玉が出ない機械的トラブルも多かったが、スタッフが汗を流しながら必死で対応したので、逆に客からは好感が持たれた。
全員が店長で、全員が経営者の目線でべラジオが動き出した。潰れかけた店が4万5000稼働をたたき出すようになった。
「感動があるから人は興奮する。感動は完璧なものからは生まれない。完璧でないから感動する。未熟なところを補うために高い壁を乗り越えようと努力するから感動する」
オープンした当初はユニフォームを買う金もないのでユニクロでTシャツと短めのキュロットを調達してきた。
キュロットはさらに5センチほど裁断してミシンで縫製した。そのユニフォームがエロカワイイと話題になった。
その後も航空会社のCA風のユニフォームをへそ出しルックにしたコスチュームのスタッフが肩もみしながらお客さんと会話したり、バニーガールがドリンクを運んだり、と斬新なアイデアを次々に繰り出した。
「非常識の中に革命がある。常識の中に革命は生まれない。お客様が喜ぶための非常識にチャレンジする」
こういう経営方針を貫き、2009年には社長を退き、弁天センター時代にアルバイトで入社し2007年には常務に昇格していた垣内氏を後継者に指名する。
べラジオにはオーナーである林田氏の身内は誰一人いない。あえて会社に親族を役員で入れないのが林田氏の方針だ。取引先にも身内は入れない徹底ぶりで、一切のしがらみを作らない。
社長を退き、垣内氏にバトンタッチして5年。この頃はパチンコにも口を挟むことはなく「任せる」の一言で終わる。初の東京進出となった東十条店のオープンにも1時間ほど姿を見せただけで帰って行った。
大半のホール企業は親族でなければ役員になれない。業界最大手のホールも身内以外は執行役員止まりで、重要なポストはすべて身内で固められている。
これでは夢が持てないが、べラジオにはそういったしがらみを全て排除しているので、将来の夢を「役員」とはっきり口にする店長が多い。
べラジオが業界を代表するホール企業になる日もそう遠くないかも知れない。